風が吹いている。穏やかな風だ。見上げれば、雲ひとつない快晴。周囲を見渡せば、緑にあふれた草原が見える。足元に目を移せば、舗装はされていないものの、長い間に、何人もの人が歩いたと思われる道。踏みならされているため、さほど起伏は感じられず、歩くのに苦労はさしてない。ゆっくりと歩いてさえいれば、たとえどれほどに運動神経が鈍くても、転ぶ事はまずないだろうとさえ思えるほどだった。

 

 小鳥が二羽、並んで飛ぶ。求愛活動でもしているのだろうか。雄と思われる小鳥が、雌と思われる小鳥の周囲を飛び回り、アピールしている。ついでに言うなら、雌も雄のことを気に入っているように思えた。

 

 

 日を見てみる。日は西にあった。あと小一時間もすれば、日は沈むだろう。

 

 どこまでも静かで、穏やかな光景。

 

 それを、しかし彼は素直に受け止める事は出来なかった。表情には笑みが浮かんでいるが、それは多分に皮肉―――それとも自嘲か―――と呼ばれる類のものが、混じっていた。

 

 せめて雨でも降っていれば、こんなにも憂鬱な気分にならなかったろうに、と彼は考えた。

 

 思い返す。自分に与えられた二つ名を。初めはなんとも思わなかった。他の人がどう呼ぼうと、関係ない。彼は彼に出来ることを成し遂げただけである。

 

 彼一人の力で成し遂げたわけではない。多くの人の協力を得、それらをまとめ上げ、―――――その結果得られたのが、英雄、というわずか二文字の称号。だからといって、私は英雄ですなどという看板が下げられるわけでもなく、また勲章が得られるわけではない。…働きに見合った勲章は授与されたが。生憎と、そういったものにはあまり魅力を感じなかったので、例えばお偉い方の集まる会議や、パーティなどにしか付けていく気はなかったし、出来ることをやり遂げただけで、そのことを吹聴して回る趣味も持ち合わせていなかった。また、そのように振舞うつもりも一切ない。

 

 その為かどうかは知らないが、英雄らしからぬ英雄と民衆には親しまれ、貴族と呼ばれる人種には、あまり好かれていないようだった。それもまた、彼にはどうでもいい。

 

 昔は、重荷に感じなかった、いつ捨てても構わないこの英雄という称号。それが、今の彼にとっては何よりも重たいものとなってしまった。

 

 大事な人一人守れなくて、何が英雄か。

 

 嘲笑。周囲がどういおうと、彼には認められない。己に英雄という称号が相応しいはずがない。

 

 おかしくて、哂いたくなる。いっそのこと、英雄という称号をかなぐり捨て、反乱の一つでも起こそうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぎゅっと、その右手が握られた。そうして思い出す。傍らにいる人物のことを。

 

 少し物思いにふけり過ぎたか。軽く頭を振り、どこまでもマイナスに入り込んでしまう思考を振り払う。

 

 そして、彼はその人物を見る。

 

 まず視界に入ったのは、あまりにも特徴的な赤い瞳。ゆっくりと、昔を思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めて出会ったときにも、その赤い瞳が非常に印象に残ったことを、覚えている。

 

 赤という色は、あらゆる色の中でも、目を引きやすい色らしいが、そういった色彩的な要素で彼女の瞳に魅入られたわけではない。…あるとしても、下から数えた方が早いだろう。…数えたことなどないので、正確な順位付けは出来ないが。

 

 そういったことではなく、彼女のあり方だ。目は口ほどにものを言う。この言葉どおり、目というものはあらゆる感情を表現する。たとえ顔で笑っていても、目が笑っていなければ、作り笑いを浮かべているのだなということが分かるし、怒っていれば本当は怒っているのだなとか、悲しい笑顔、というようにも変容できる。笑顔を構成する要素の一つに目を取り入れるだけで、多彩に変化してしまうのだ。

 

 彼女は、感情を表に出さなかった。まるで出すことを忘れたみたいに。仲間といても、それは同様だった。

 

 気になった。異性として、というわけではない。単純に、そう、単純に、だ。彼女は心を閉ざしている。そのことが、自分と非常に良く似ているなと。そう考えただけ。

 

 …いろいろあった。その過程で、彼は彼女に己の内情を吐露する出来事に遭遇した。おそらくは、彼女にしか出来ないことだった。そのときに、彼女に心を奪われたといっても過言ではない。年齢差など関係なかった。

 

 幾度も二人で、などというとおこがましいだろうが、おせっかいな仲間の協力も受けながら、厳しい戦い抜いてきた。

 

 …最後が、いけなかった。全力を尽くした。出しつくせる力は全て出し、あらゆる策という策を考え、それでも、それには手が及ばなかった。

 

 時空震爆弾《クロノ・クェイク・ボム》。

 

 かつて、この銀河にクロノ・クェイクと呼ばれる災厄を引き起こした、驚異的な爆弾。巻き込まれればおそらく、次元の狭間にでも飲み込まれるだろう。そうでなくても、これが与える影響は多大なものだ。

 

 恒星間宇宙航法《クロノドライブ》。恒星間《クロノ・ウェイブ》通信。どちらも、今となってはこの銀河になくてはならない技術だ。今の銀河の文明を支える基盤のひとつ。そして、これらはクロノスペースと呼ばれる亜空間を利用した技術である。

 

 そのクロノスペースを、使えなくしてしまうのがクロノ・クェイク・ボムの力だ。これが使われれば、目の前の小さな勝ちを拾う事は出来ても、いずれくる決定的な敗北を避ける事は出来なくなる。

 

 だから、それが爆発する前に、なんとしても破壊しなければならなかった。

 

 その為の策など、一つしかない。最大戦力を持って、破壊する。それだけ。

 

 だが、出来なかった。

 

 絶望。そのときになって、彼の大事な人があることをやり、その大事な人はいなくなった。

 

 彼女にとっても大事な人だったので、二人で暇を見つけては探し回ったが、見つけることが出来ず……一年で、肉体、精神的に疲弊した彼らは、諦めた。探すことを。生きているかもしれない、という希望を捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ヴァニラ…」

 

 彼は、彼女の名を呼ぶ。

 

「タクトさん……」

 

 彼女は、彼の名前を呼ぶ。

 

 彼の名は、皇国の英雄改め、いまや銀河の英雄と呼ばれる人物、タクト・マイヤーズ。

 

 そして、彼女の名は、英雄の伴侶であり、白き月を守護するムーンエンジェル隊のエースパイロットとしても知られる、ヴァニラ・H《アッシュ》。

 

「日が暮れてしまいます……早く、ルナさんの…」

 

「……ああ、そうだね……」

 

 悲しく、タクトは笑顔を向け、顔を上げた。足が動かない。本当は認めたくない。これ以上進みたくない。今すぐにでも引き返したい。

 

 タクトにとっても、ヴァニラにとっても、大事な人の墓参りなど、したくない。

 

 ルナ・マイヤーズ。タクトの従兄妹であり、幼い頃、彼の心の支えであり、ヴァニラにとっては姉のような存在。だから、認めたくない。認めたくないのに――――――

 

 ――――――足が、一歩前に出た。

 

 そうなれば、足を止めることなんて出来なかった。ただ足が前に進むことを。今更止めてどうなる。最後の一線を、越えてしまったのだから、もう後は前に進むしかない。

 

 気が付けば、日は傾き、沈みかけていた。西の空が赤く染まりはじめる。

 

 道なりに進んでいくと、何度か補修された形跡のある、歴史のある教会が見え始める。その横には、幾多もの墓が。と、そこまで目に入ったとき、二人は目を見開いた。

 

「「…………ルナ(さん)!?」」

 

 思わず、タクトとヴァニラは駆け出した。その墓に、見慣れた人物が立っているような、そんな気がしたのだ。

 

 西日がまぶしい。ちょうど赤い太陽が視界に入った。思わず顔をしかめる。

 

 すぐにその西日から視界が外れるが、いると思った人物は、居なくなっていた。

 

「……気の、せい……」

 

「…そう…みたいです」

 

 はあ、と溜息をついた。一時的にでも、幻を見てしまうなんて。座り込みたくなるが、ここまで来たのだから、行くしかない。

 

 ゆっくりと歩いて、その墓の前に立った。用意していた花を、供える。先ほど走ってしまったため、少し花びらが散り、形も崩れてしまっていた。だから、供える前にせめて形だけでも整え、それから花を供えたのである。

 

「………………………………………」

 

「………………………………………」

 

 言いたいことを用意していたのだが、ここに至って言葉が出なくなる。日が、沈む。西の空が薄紫色に。東には、既に夜空。

 

 しばらく立ち尽くし、夜空が広がったところで、タクトはようやく、短い二つの言葉を伝えた。

 

「……ありがとう……さようなら」

 

「……」

 

 一体どのような思いが込められていたのか。それは、おそらく、タクトにも全てを把握する事は出来なかった。

 

 ただ、昔の思い出を浮かべ、その全てに、別れを告げた。忘れるわけではない。…あまり、思い出したいわけでもない。思い出すと、どうしようもなく、悲しくなってしまうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…帰ろうか」

 

「…はい」

 

 日が沈む前に、帰りたかったのだけれど。踵を返し、墓から離れる。暗くなったものの、道はまだ見えている。その道に沿って進む。

 

 どくんと、胸が高鳴る。足が止まる。ヴァニラも、それは同様なのか。

 

「…なんだろう。これ以上進むと、嫌なことが起こる……そんな気がする」

 

「……はい。…私も、感じます」

 

 何の確証もありはしない。それは勘だった。危機に対する勘。戦場では役に立つが、日常生活ではあまり役に立たない。それが、警鐘を鳴らす。どくりどくりと、心臓は鐘を打つ。

 

「…まさか、ね」

 

「…今日は、教会に泊まることに、しましょう」

 

 思いなおし、教会に戻ろうとした。その瞬間。驚きでタクトは動きを止めた。何者かが目の前に立っている。その手には、見覚えのある光線銃。それの意味することを、理解する暇もなく。

 

 ぱしゅん。

 

 音が、響いた。

 

 熱いものが、タクトの胸から背中へと、貫通する。

 

 同じ音が響く。ヴァニラを、今度は貫く。

 

「……は……何、が……」

 

 痛い。痛い。痛すぎて何も感じられない。視界が暗くなる。ひざに力が入らない。脳に血液が回らない。思考が回転しない。回転しない思考で、かけがえのない少女を捜す。

 

「…あ……タクト……さん……」

 

 激痛。意識を失いかける。その意識も、激痛によって取り戻される。まともな思考なんて、失われている。感覚がない。激痛が治まり始めるにつれて、視界が暗くなる。暗くなる視界で、タクトの姿を捉える。捉えたので、何も考えられず、ただ手を伸ばした。

 

 指の先が触れ合う。その感覚を頼りに、お互いの手を握り締めあう。

 

「……そこに……ヴァニラ……」

 

「…タクト、……さ……」

 

 意識が失われる。力なく、その手は落ちる。

 

 ただ、その手は、握り締められたまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 倒れる二人の首筋に、中指と人差し指とを当てる人物がいた。その手には手袋がされていた。ごく薄いもので、脈を計るのに邪魔になるものではない。ただ、少しだけ感覚が鈍くなるのが難点だった。

 

「……ターゲット、タクト・マイヤーズ、死亡確認……同じく、ヴァニラ・H《アッシュ》、死亡確認……」

 

 生きているはずもないな、と口に出さず呟き、その男は立ち去る。

 

 手にしていた銃を懐にしまう。

 

 その場から男が立ち去る。

 

 それからまもなくして、タクトと、ヴァニラの二人の……男の言葉どおりであるならば、二人の死体を包み込むように赤い光が現れ、…二人の姿は、融けるように消えた。