優しい風が女の頬を撫でる。

長い髪をなびかせはしないが、前髪が微かに揺れて彼女の目にかかる。

ルシャーティは手でそれを払うとバックを肩から外した。

口を開けてゴソゴソと何かを探しだす。

最初は別段変わった様子もなかった。

だが次第に顔にほんのりと焦りが滲んでくる。

しまいにはバックの中身を次々と出して地面に並べていくが肝心な物が見つからない。

 

もしかすると……持って来るのを忘れてしまったのだろうか。

ゴソゴソ、ゴソゴソ。

バックの中を手が慌ただしく動く。

 

 

 

 

 

 

 

 

短くもない時間が経過して。

ルシャーティの表情から焦燥の色が抜けた。

探し物はどうやら見つかったらしい。

が、すぐに取り出しはしない。

代わりに眼の前の墓石に恥ずかしそうに笑いかける。

 

 

 

 

 

 

 

春の風が今度は強く、女の髪を揺さぶった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

精緻なグラスで乾杯を

作・三雲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

髪が風に弄ばれ、青いリボンも一緒に揺れる。

ときどき起こる風は私を心地良く思わせる程度のものだけど、たまに気紛れで強く吹く。

髪が整いを失うのはあまり嬉しくない。

しかしさっきからこうして幾度か風に体を触られているからこそ実感できることもある。

 

 

 

 

 

 

「春、ね……」

今日はいかにも春らしい天気で午後の陽だまりの中にいると厚めに着てきた服を一枚脱ぎたくなるくらい。

なのに夕方には雨が降り、気温も急に下がっていくという。

本当だろうか。

空に雲は多少あるけど暗い雲は見あたらない。

折り畳み傘も入れたバックを疑わしい眼で見る。

 

また気紛れな風が髪を、リボンを弄ぶ。

でも不快さは微塵もない。

 

 

 

 

「気持ちいい風ね、ヴァイン」

 

少し乱れた髪に手をやりながら、弟の墓石に向かって声をかける。

 

 

 

 

 

「まあね」

 

 

そんな風に彼に言葉を返された気がした。

 

 

 

 

 

 

 

強い風が通り過ぎる時以外は緩やかな時間が流れている午後の霊園。

 

 

 

私は今日も弟の墓参りに来ている。

昨日も来たし、一昨日も来た。

でもそれは「行きたかった」からというより「行かなければいけない」気がしたから。

最近のお参りはそんな動機によるものばかり。

 

 

 

「ダメよね、そんな理由じゃ……」

重い雰囲気を纏った声で呟き墓石に向かって苦笑する。

彼はさっきと違い私の呟きに何も反応してはくれないようだった。

 

「黙ってないで何か言ってよ」

無茶なことを言っている。

それは分かっている。

さっき彼が返事してくれたと感じたのは何かの間違い。

だが彼のことだから私に意地悪して黙っているように思えてしまう。

それはひとえに弟の生前の行いのせい。

 

 

 

風が私を嗜めるようにやや強く吹く。

ちょっと大人げなかっただろうか。

反省。

……やっぱり私はダメな姉だ。

 

 

 

「ごめんなさい」

こんなことを言う為に来たんじゃないのに。

謝罪の言葉を口にしながらも苛立ちの感情がゆっくりと沸き起こってくる。

悪いことを言ってしまったのだから謝るのは当然。

けど謝らなければいけないことをした自身には少し、腹が立つ。

 

 

弟は許してくれただろうか。

それとも最初から何も気になどしていなかったのだろうか。

 

 

 

 

どちらが正解なのか、どちらも不正解なのか。

 

 

 

私には、分からない。

 

 

 

 

 

 

 

春風は……気紛れ。

温かく撫でてくれたかと思えば冷たい手で私を凍えさせ、優しく接してくれたかと思えば乱暴をする。

 

そんなことを思っていたら。

乱暴な風が吹き抜けて、私の髪を激しく乱す。

それだけでなく、しおれた花に代わってお墓に手向けようと用意した花束をコロコロと……。

しまった。

紙にくるんで地面に置いたままにしておいたのはいけなかったみたい。

待って。

待って、行かないで。

 

大慌てで追いかけると花束は一、二メートル進んだだけで転がるのをやめてくれた。

私は止まった花に近づき手を伸ばしかけたがその前に辺りを見回す。

誰もいない。

今日もこの時間墓地に来ているのは私だけ。

平日の昼にお参りに来る人はあまりいないし、私はいつものように一人で来た。

だから誰もいないのは当たり前。

風を受けて転がされていく花を追いかけてくれる人がいないのも。

慌てて花を追いかけていく羽目になった私を苦笑する人がいなくても。

 

私は花束を大事そうに手にとり、それから。

 

 

 

 

 

……はぁ。

 

吐息を一つ吐いて弟の墓の前へと戻る。

 

 

 

風が私の目に埃を放り込んで駆け抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暫らく風に吹かれるまま、ぼうっとしていた。

どれくらい経ったのだろう。

墓石の前でしゃがんだまま固まっていた私は風に揺られた前髪が目にかかったのをきっかけに我に返った。

今日ここへ来た目的を思い出し、バックから小さめの正方形の箱を取り出す。

 

 

 

 

 

 

「ねえ、ヴァイン。これ、憶えてる?」

箱に収められていたそれを中から出して墓石に近づけてみせる。

入っていたのは小さくて、ひびのあるグラス。

「憶えてる? これあなたが私の誕生日に……」

私がライブラリに幽閉されていた頃。

弟はしばしば私に会いに来てくれた。

これは私の誕生日にやって来た彼がプレゼントしてくれた物。

「『欲しいならあげるよ。嫌なら、別にいいけど』なんて言いながらね」

クスクス。

口元がつい緩んでしまう。

 

 

 

 

あの時のあなた、本当にかわいかったわ。

あなたにもらったこのグラスと同じくらいね。

 

 

 

 

けれどせっかくあなたがくれたこのグラス、結局一度しか使えなかった。

それは私の不注意のせい。

 

早速もらったグラスにジュースを注いであなたと乾杯した時、私はグラスにひびを入れてしまった。

 

 

 

弟が私に贈ったグラスはとても華奢なもので。

ライブラリにあった平凡なグラスを彼に渡し、彼がくれたグラスと杯を交わしたら。

もらったばかりのグラスにひびが入ってしまった。

 

 

 

「華奢なグラスはグラスを当てて乾杯してはダメだったのね。私知らなくて……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 

「いいよ、気にしないで」

 

あの時弟は私が詫びるたびに笑ってそう言ってくれた。

その笑顔に陰りはなかったように見えた。

そう、「見えた」……。

 

 

 

 

 

 

「あのグラスね……とっておいたの」

だって、捨てられるわけないじゃない。

 

 

「それからね、今日は、あなたに贈り物があるの」

バックからもう一つ小さめの正方形の箱を取り出し上目遣いで尋ねる。

「気に入ってくれるといいんだけれど……」

 

 

 

 

箱から出したのは。

小さなグラス。

弟が私に贈ったのと同じ物。

 

 

 

「少し苦労したわ、あなたが私にくれたのと同じのを捜すのは」

ちょっと、自慢げな言い方になってしまったかしら。

でも本当に大変だったのよ。

その苦労して手に入れたグラスを弟のお墓の前に置いて、言う。

「これで乾杯しましょう」

 

 

 

私は買ったグラスを弟の墓の前に置いて用意した飲み物を注ぎ、また自分のひびが入ったグラスにも同様に注ぐ。

とくとくと。

零さないよう気をつけながら。

お酒を持って来ようかとも思ったがジュースにしておいた。

これでもそれなりに雰囲気は楽しめるからいいわよね。

 

 

 

 

 

 

注ぎながら色々な思いが込み上げて来る。

私は今日を最後に当分ここへ来るつもりはない。

年に二、三回は訪れるつもりだが週に何回も、は来ないつもり。

今日みたいに今までは休憩の時間をもらってライブラリからここへお参りをしに来ていたが、それは私のわがままを聞いてもらっていただけで本来は望ましくない。

それでも休日にお参りするのは誰も咎めないと思う。

 

けど……。

 

 

 

 

 

私がここへ毎日のように来るのは“義務”を感じているから。

生き残ったことに負い目を感じているから。

それにこの前やっと、気づいた。

そんな気持ちでお参りするのは嫌だし。

何より弟にとても失礼。

 

 

 

だから……暫らくはここへ、来ない。

 

 

 

 

 

 

「親にとって子供に先立たれる程不幸なことはないというけど……」

ジュースを注ぐ手を一旦止めて呟く。

 

 

 

「今なら……それがどれだけ辛いことなのか、分かるわ」

世の中には“順番”というものがある。

親が我が子より先に逝くのもそう。

順番どおりに逝った場合でも残された者は悲しみを味わう。

 

 

 

姉と弟。

人間と『ヴァル・ファスク』。

どちらが先に逝くべきだったのだろう。

 

 

答えは、分かりきっている。

 

 

 

どうして順番が逆になってしまったのか。

私のせいだ。

私のせいで順番が変わってしまった。

 

 

それが、私の負い目。

 

 

 

でも負い目を感じることでどこか安心もしていた。

それは弟を忘れていない証拠。

写真に残っている以外の顔をとっさに思い描けなくても。

声をはっきりと思い出せなくなってきても。

彼の死と自分の生に後ろめたさを感じている間は大丈夫……。

 

 

 

 

昨夜。

夢を、見た。

弟の夢。

内容はよく覚えていない。

ただ、朝弟に起こされて、寝ぼけた私が彼に抱きつく場面があった気がする。

……変な夢だった。

 

弟が枕元に現れるなんて随分久しぶり。

それだけ、時が経ったということかしら。

 

時は優しい。

私の悲しみをだいぶ薄めてくれた。

でも……それだけ。

 

弟の夢を久しく見なかった、ということは私の中で弟の存在がもうすっかり小さくなってしまっていたのか。

小さくないからこそ、夢に出てきたのだろうか。

 

 

 

私は弟に負い目を感じていた。

寧ろそうでなければいけない、と無意識に思っていたかもしれない。

少なくとも時間が私から彼の記憶をゆっくりと消していってしまうのに怯えていたのは間違いないと思う。

 

 

 

……いいえ。

弟のことを忘れていく自分に怯えていた、の方がたぶん正しいわね。

 

 

私は弟の墓を参るのに義務を感じていた。

私は弟に負い目を感じていた。

さらにそう負い目を感じなければならないと思っていた……。

 

 

……クスッ。

 

 

 

口元を僅かに緩ませた私を冷たい風が触って通り過ぎる。

さっきまでと違い心地良さはなかった。

空に変化はないように見えるが、どうやら本当に天気は下り坂らしい。

早く、用事を済ませないと……。

 

 

 

 

 

再びジュースを注ぎ始める。

慎重に。

零さないよう、注意して。

 

 

 

 

 

 

 

二つのグラスが鮮やかなオレンジ色のジュースで満たされた。

たっぷり入った液体は少しの震動でも中から飛び出してきそう。

……ちょっと入れすぎたかな。

その辺りは大目に見てもらおう。

 

 

 

 

「じゃあ、乾杯」

決まり文句を言い杯を重ねないで弟と乾杯する。

けれどどこか不満で、私はグラスに口をつけず手に持ったまま。

やがて何に不満か気づくと。

 

 

 

「もう一度。……乾杯」

そう言って自分のグラスと弟のグラスを軽く、ぶつける。

一回目では思惑どおりにならず、もう一度。

今度は気持ち強めに。

 

 

 

 

 

 

カン。

 

 

 

 

 

透明な音を立ててグラスとグラスが触れ合う。

 

 

 

「……うん。これでいいわ」

そう、これでいい。

少し中身が零れ手にも雫が飛んでしまったが、まあ、ちょっとくらい。

ハンカチで手を拭き、ふと空を見上げるとさっきは気がつかなかったが遠くが黒い雲に覆われて暗くなっている。

用も済んだことだし。

そろそろ、お暇した方がいいみたいね。

 

 

 

「じゃあねヴァイン。さようなら」

私はジュースをほぼ一気に飲み干すと自分のグラスをバックにしまい、会釈と別れの挨拶をして弟の墓の前から去る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オレンジ色に染められたひびの入ったグラスを一つ、残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

この度は私の拙い文章を読んで頂き、ありがとうございます。

作者の三雲です。

九ヶ月ぶりのGA小説の投稿となりました。

その割には短い内容…。

とりあえず前作での「努力目標」を達成できてホッとしております。

 

この作品は『墓逢瀬』の続編という形になりました。

今回登場する人物はルシャーティだけです。

本作だけの感想と『墓逢瀬』を読まれた後の感想は少し違うものになるかもしれません。

けれど本作のみでも完結するよう、注意したつもりです。

いかんせん素人の作品ゆえ見苦しい個所もあったかと思います。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。

 

願わくば、来年の今頃までにまた小説を投稿できればと考えています。

その時には少しでも、今より腕を上げておきたいです。

 

拙作を読んで頂き、誠にありがとうございました。

 

2006年5月27日      三雲