浮上する意識の中でアークが最初に感じたのは、右腕に載せられた重さだった。

痛みを伴うような圧迫感ではなく、温もりを伴った不思議と安心できる感覚だ。

ん、とうめきながらアークは目を開ける。

低い視点からは白の壁や天井が見え、背中と後頭部には硬い感触がある。

『謁見の間』の柱の一つに背中を預け、床に腰掛けて眠っていたのだと分かり、アークは昨夜を思い出す。

・・・・・・・・差し入れに来て、そのまま・・・・・・・

 

「おはようございます、アークさん」

「あー、おはよう・・・・・・・・って―――――」

 

素早く顔を上げると、白のドレスを纏った女性が正面に立ち、こちらを見ていた。

アークは、少しの沈黙をもって彼女の名前を呼ぶ。

 

「・・・・・・・・・シャトヤーン。いつから、ここに?」

「先ほどからですよ。よく眠っていましたね」

「悪いな、せっかく部屋を用意してもらったのに、こんな所で寝ちま・・・・・・・・・・・・お?」

 

アークは上体を起こそうとするが右半身が動かず、柱から数センチ背を離しただけの不自然な姿勢で硬直。

そういえば、と目覚めの際に感じた感覚を思い出して視線を右に移せば、

 

「―――――――」

 

目に飛び込んだのは鮮やかな金の色だった。

一呼吸置いてアークはそれが髪であることに気付く。そして、その色の持ち主である少女のことも。

 

「・・・・・・・ノア?」

 

名前の主は問いに答えない。ただ、静かに寝息を立てるだけだ。

密着、そう呼べる距離に『黒き月』の管理者である少女は眠っていた。

ノアの顔はアークと反対側に向けられて見えないが、上体はアークの右腕に寄せられ、頭を彼の肩に預ける体勢だ。

アークは5秒ノアを見て、それから正面のシャトヤーンに視線を戻す。

さらに5秒沈黙した後、あのさ、と続け、

 

「・・・・・・・シャトヤーン。もう一度聞くけど、いつからここに?」

「先ほどからです」

 

返答と共に、変わらず微笑むシャトヤーンにアークは気だるい顔になる。

・・・・・・・・・深くは聞かない方が身のためか。

後ろの柱に体重を預けていたアークと違い、ノアは横にいるアークに重心を置いている。

アークが身を支えている状態で、彼女を起こさずに自分だけ起き上がるのは難しいだろう。

どうしたもんか、とアークが思っていると、シャトヤーンはこちらに一歩近づいてノアの前で身を低くする。

 

「・・・・・・・本当に、よく眠っていますね」

 

その横顔は、自分やエンジェル隊に向けるものとは、何かが違うとアークは思う。

民衆に対しての偶像的な《聖母》ではなく、実の子に対しての母親というイメージが浮かぶのは、

・・・・・・・・・・・・・・・・感傷、だな。

自分の中に生まれた感情を振り払うように、アークは軽い声で、

 

「昨日、遅くまでデータ見てたからな。それに・・・・・・・・色々と疲れたんだろ」

「そうですね・・・・・・・EDENや『ヴァル・ファスク』のことでずっと張り詰めていましたから」

「そこに、俺が突然現れた・・・・・・か。そりゃ、気苦労多いだろうよ」

 

アークは苦笑しながら再び柱に背中を預けてノアを見る。

身長の違いから、彼はノアを見下ろす形になる。それを見て、

 

「・・・・・・・・・・・・・慣れねえ角度」

 

そう評したアークの耳に、『謁見の間』の入り口から一つの新しい音が入った。

足音だ。それには声もついてきた。

 

「失礼します。シャトヤーン様とノアにちょっとお話が・・・・・・・・・・・・っと・・・・・・・・・・・・」

 

『謁見の間』に足を踏み入れたタクト・マイヤーズは、部屋に入った途端こちらを見て動きを止めていた。

動けないアークと対照的に、シャトヤーンが居ずまいを正し彼に向き合う。

 

「マイヤーズ司令、何か御用でしたか?」

「ええ、まあ・・・・・・もう少し、『ヴァル・ファスク』の話を聞かせてもらおうかと思いまして」

「そうですか。ですが、この通りノアは・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・よく寝ていますね」

 

タクトはノアを見た後、アークに視線を向けてきた。

昨日、彼やエンジェル隊にはアークが名乗り、その後に彼らも自己紹介はしてくれたが、それ以上の深い話はしていない。

クロノ・クェイクの真実を聞いて彼らも動揺していたのか、それ以上深く聞いてこなかったのは幸いだった。

アークはタクトに向かって、動く左手で謝罪のポーズを取り、

 

「悪いな、こんな格好で」

「いや・・・タイミングが悪かったみたいだから、出直すことにするよ。それより・・・・・・・なんで一緒に寝てるんだい?」

 

あー、と唸りながらアークは、横に置かれた白のテーブルと椅子を見る。

机は昨夜アークがナノマシンで《構築》して、椅子はノアが使っていたものだ。

 

「元々は俺が後ろで寝てたんだけど、ノアも休憩がてら床に座ったらそのまま疲れが出て眠ったんだろうな。

最初は離れてたけど、寝惚けて次第にこっちに動いて・・・・・・ってところだ」

「・・・・・・ずいぶんと具体的だね」

「昔からのパターンなんだ。俺が後ろで寝てると、起きた時には大体隣で寝てる」

 

その返答にタクトとシャトヤーンから揃って、え、という疑問の声が出た。

だが、彼らに追求されることはなかった。

 

「ん・・・・・・・・んん・・・・・・・」

 

アークの隣から声と動きが生じた。

タクトは焦った顔になり、

 

「しまった、起こしちゃったか?」

 

その言葉を肯定するように、ノアが緩慢に動き顔を上げた。

ノアは左のアークではなく、まず正面に位置するシャトヤーンの姿を見つけ、

 

「んん・・・・・・ん・・・・・・・シャト・・・・・ヤーン・・・・・?」

「ええ、おはよう。ノア」

「ん・・・・・・・・・・・おはにょ」

 

応えてはいるが、意識がはっきりとしないままノアは右の手で目を擦っている。

アークが息を殺していると、タクトがシャトヤーンに乗じて挨拶する。

 

「おはよう、ノア」

「はよ・・・・・・タク・・・・・・・・・・・・・」

 

アークは沈黙したノアの隣で、声を殺したまま思う。

・・・・・・・・・・・やべえな。

この後の状況に対して、直感と経験が同時に警報を鳴らしている。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!」

 

事態は到来した。

ノアの意識が一気に覚醒したらしく、彼女は勢いよく立ち上がる。

アークの右腕に重ねられていた重さと温もりが消えて少し肌寒く感じたが、すぐにそれも消えた。

視線の先では、頬を赤くしたノアがタクトとシャトヤーンを睨みつけており、

 

「な・・・・・・・な、な、なんであんたがここにいるのよ〜っ! そ、それになんであたしシャトヤーンに・・・!」

 

ノアとは対照的に、シャトヤーンは穏やかに笑うだけだ。

慌てたのは、その横にいるタクトだ。彼はあたふたと、

 

「お、落ち着きなってノア・・・・・・・・・・このことは誰にも・・・・・」

「う、うるさ〜〜〜〜〜い!」

 

・・・・・・・・・・・・・緊急避難だな。

タクトに吠えているノアから、アークは距離を置こうと身を少しずつ左にずらし始める。

今、ノアの注意は前方のタクトとシャトヤーンに向けられている。

起きて早々に、あの怒りを喰らうのは嫌だ。そのためには、ノアに見つかる前に、一度この場から離れて――――

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

見つかった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

こちらを見るノアは無言だ。

彼女は何か不審なものを見るような表情をした後、

 

「・・・・・・・・・・・・・っ!?」

 

大きなヴァイオレットの瞳を持つ目を開き、再び頬を赤く染めた。

こちらは何も悪くない。悪くないのだが・・・・・・・・・・罵声が来るのは確実だろう。

・・・・・・・・・・・理不尽だよなあ。

それを知っているアークは瞬時に判断を下していた。

アークは真剣な顔で頷いた後、爽やかな笑みで右の親指を立て、

 

「おはにょ、ノア。今日も一日元気にいくにょ」

 

直後、満面の笑顔のアークの左頬にノアの右の平手が元気に直撃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一章 疾風は目覚めて 第6話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルシオールの通路を二人の男が並んで歩いていた。

一人は、トランスバール皇国軍の上級士官服を着るタクト・マイヤーズ。

もう一人は、かつてのEDEN軍の黒の制服を纏うアーク・レモネードだ。

タクトは、隣で左の頬をさするアークを見て、顔をしかめた。

 

「うわ・・・・・メチャクチャ手形残ってるね」

「昨日といい、どうして俺の周りには、まともな目覚ましがないんだか・・・・・・あー、いてえ」

「・・・・・というより、君、わざとノアが怒るようなことしてない?」

「・・・・・・・・・・・自覚はないけど、よく言われる。少し気をつけよう、俺の安全のために」

「オレの平和のためにもお願いするよ」

 

二人の男は同時に溜め息をつき、うなだれる。

タクトが前を見れば、通路は左右に分岐している。

隣を歩くアークは、さて、と前置きしてこちらを向き、

 

「これから、マイヤーズ司令はどうする?」

「ノアとシャトヤーン様と今後のことについて話すつもりだったけど、時間が空いたからね。ヴァインからルシャーティに会ってほしいと言われてるから、まず彼女のところに・・・・・・・・」

 

そこまで告げてからタクトは思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・何か違和感があるな。

幸いにも、すぐにその正体は思い当たる。というより、目の前にあった。

タクトは、あのさ、と前置きしてから言いづらそうに、

 

「ええと、レモネード特務兵・・・・・・・なんで君まで、エルシオールにいるんだい?」

「あ・・・・・・・・・・・・そういえば」

 

タクトはここまでの経過を思い出す。

ノアの怒りが爆発した『謁見の間』から一目散に逃げた結果、二人揃っていつの間にかエルシオールにいた。

あまりにも自然に隣を歩いていたので今まで意識していなかったが、彼はエルシオールのクルーではない。

自分の状況を理解したのか、アークは気まずそうに頭をかいた後、何故か敬語で、

 

「あのー・・・・ほとぼりが冷めるまで、かくまってくれません? マイヤーズ司令」

「エルシオールにいたいってことかい?」

「知ってのとおり、今すぐ『白き月』に戻ると、色々と身が危険なんで。もちろん、監視とか行動制限つけても構いませんけど」

「いや、必要ないよ。君の身元はノアが保証してくれてるようなものだしね」

 

タクトはそれから、と続け小さく笑う。

 

「オレのことはタクトで構わないよ。君は俺の部下ってわけでもないしね」

 

アークは、え、という声と共にしばらく黙った後、同じように小さく笑い、

 

「そっか・・・・・・なら、俺のこともアークで頼むよ。よろしく、タクト」

「こちらこそ、アーク」

 

どちらから先に、というわけでもなくタクトは握手を交わしていた。

最低限のこと以外を喋らなかった昨日に比べて、タクトは随分と人懐っこい印象をアークから受ける。

うちとける契機になったノアの怒りも、そう悪くはなかったのかもしれない。

 

「それよりさっきの話だけど、アークも一緒に行かないかい?」

「ルシャーティの所にか・・・・・・・?」

「生まれた時代は違うとはいえ、同じEDENの出身者だ。話もはずむと思うんだけど」

 

本心からの言葉だ。戦況的に見ても彼らとアークが親密になるのはきっとプラスになるだろう。

だが、アークの反応は鈍い。顔にあるのは躊躇いの態度だ。

彼は、あー、と天井を見上げた後に苦笑して、

 

「悪い、俺はパスさせてもらうよ」

 

そう告げたアークの顔に、タクトは昨日の『謁見の間』での彼の態度を思い出す。

クロノ・クェイクの真相を話した後も、彼は自分からルシャーティとヴァインに話しかけはせずに彼らを無言で見ていた。

同じEDENの民でありながら、アークは二人に対してどこか距離を置こうとしている気がする。

その理由が、生まれた時代の違いから壁を作っているのかとも思ったが、生まれた場所すら違うタクトに対してはその傾向を見せていない。

アークは、その声と表情に陰りが消えないまま、

 

「・・・・・・・悪いな、タクト」

 

彼はもう一度謝罪の言葉を告げて分岐の左側へ曲がっていく。

偶然かは分からないが、タクトが向かおうとしていたのは分岐の右だ。

一人、エルシオールの通路を歩いていくアークの背中を見て、タクトは、

 

「ちょっと待って。誰か案内を・・・・・・・」

 

だが、アークは振り向くことなく、

 

「艦の基本構造自体をいじってない限りは、少なくとも迷うことはないから安心していい。分かってる・・・・・・・いや、知ってるから」

 

タクトは思い出す。ここまでの道中、彼はやけに自然な動作で通路を歩いていたことを。

たとえ、事前に『白き月』で内部構造を調べていても、初めて来た環境ならば周囲を見渡すなど慣れぬ態度を見せるはずだ。

昨日、告げられた彼の正体と、エルシオールのことを考えればすぐに推測は出る。

 

「アーク。初めて会った時に通信で、エルシオールが懐かしいって言っていたのは・・・・・・・・」

「600年前・・・・・・俺の感覚で言えば、つい最近まで乗ってた・・・・・・母艦なんだよ。この艦は・・・・・・・」

 

その言葉を告げるアークの表情は、タクトからはもう見えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『謁見の間』で、シャトヤーンは笑っていた。

 

「まったく・・・・・あいつは・・・・・・・・」

 

未だ頬を赤く染めて文句を言っているノアを見ると、つい笑ってしまう。

声を出して笑うのではなく口元を小さく微笑の形にするだけだが、そんなシャトヤーンの気配にノアも気付いたのか、不機嫌な顔でこちらを見て、

 

「シャトヤーン。あんたも黙って見てないで、あたしだけ起こしなさいよね」

「ごめんなさい、ノア。ですが、お二人とも気持ちよさそうに寝ていたものですから」

「・・・・・・・・・・・・・ぅ〜」

 

こちらの返答に、ノアは不機嫌なままの表情で顔を背ける。

それを見てシャトヤーンも、

・・・・・・・・・・・・・少し、からかいすぎましたね。

シャトヤーン自身も意外だった。彼、アークといると、なぜかこういう空気に馴染んでしまう。

それが彼の持つ人柄からなのか、あるいは――――

 

「ノア、アークさんのことですが」

「あいつが馬鹿で馬鹿でどうしようもないやつってことは、もう十分に理解できてると思うけど?」

「ですが、あなたはそうでない彼も知っているのではありませんか?」

 

ノアが動きを止め、もう一度こちらを見た。

その顔には先ほどまでの苛立ちではなく、緊、の文字が浮かぶ。

ノアは硬い声で、

 

「・・・・・・・・・・・何が言いたいの?」

 

・・・・・・・・・・・いずれは、聞かなければいけないことです。

そうシャトヤーンは己に前置きし、ノアに問うた。

 

「彼もはっきりとは言いませんが・・・・・・・・・・・・。

あなたたちは、ただ対の月に所属していたからではなく、それ以上に深く互いを知っていたのではありませんか?」

 

ノアは問いに答えない。

その顔には驚きや苛立ちはなく、ただ無言でシャトヤーンを見る。

『謁見の間』に重い沈黙が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アークは困っていた。

理由は、非常にシンプルなものだ。

・・・・・・・・・・・腹減ったなあ。

目覚めてから、食事を取る間もなく逃走してきたために朝食を食べていない。

そのことを悔いながら、通路を歩いていると、

 

「いらっしゃいませ〜」

 

肩の力というか、全身の力が抜けるような男の声が響いてきた。

声の方向を見れば、ガラス張りの自動ドアの向こうには大量の食料や雑貨が置かれていた。

棚に取り付けられた値札や、奥のカウンターに立つ眼鏡を掛けた男を見る限り、それらを販売しているということはすぐに分かる。

アークは内部の食料を見て一瞬喜んだものの、現状に気付いた。

・・・・・・・・・・金持ってねえし。

 

「おにぎりがお安いですよ〜。本日ならサンドイッチ2個で200ギャラですよ〜」

 

果たして200ギャラが安いかは知らないが、アークは彼に一つのことを思う。

・・・・・・・・・・・ケンカ売ってんのか、コラ。

アークは、こりゃいかんと己に言い聞かせる。いくら腹が減っているとはいえ、気が短すぎだ、と。

この程度でキレているようでは人間が小さいと・・・・・・・・・・

 

「肉まんがホカホカですよ〜」

 

キレた。そして決めた。

・・・・・・・・・・・何か拝借しよう。バレたら、あのメガネぶん殴って逃げよう。

そう思い、店の自動ドアをくぐろうとした時だ。

 

「あら・・・・レモネードさんじゃありませんこと?」

 

右側から声が聞こえてきた。

振り向けば、そこにはエンジェル隊の一人、ミント・ブラマンシュが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミントがアーク・レモネードを見つけたのは、声をかけるより10秒も前だった。

遅い朝食を兼ねてエンジェル隊の皆とティーラウンジでお茶を飲んでいたが、お茶請けにしている駄菓子が切れたので宇宙コンビニまで調達に向かう途中だった。

そして店の前に辿り着くと、そこには店内を凝視するアーク・レモネードの姿があった。

その真剣な表情に、一体何事かとミントもその場で立ち留まっていたのが費やした10秒だ。

最終的に彼女がアークに声をかけたのは、彼が店内に入る際に、何か『黒い』感情が読み取れたからだ。

 

「あら・・・・レモネードさんじゃありませんこと?」

 

名を呼ばれた彼は、こちらを見た後に小さく会釈して、

 

「えーと・・・・・・・・ミント・ブラマンシュ中尉だっけ?」

「ええ。よろしければミントとお呼びくださいな。レモネードさん」

「なら、俺のこともアークで構わない。それでミント、早速で悪いんだけどな・・・・・・・」

「はい・・・・・・・なんですの?」

 

ミントが言葉を追える前に、アークはこちらに向いて素早く床に膝をつき、上体を折り、頭を下げていた。

人は、その体勢を土下座と呼ぶ。

いきなり自分を襲った事態に、ミントは戸惑いの口調で、

 

「あ、あの・・・・・・・ちょっと・・・・・もし、レモネードさん?」

 

アークは頭を下げたまま、言い切った。

 

 

「金貸してください!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『謁見の間』では長い沈黙が続いていた。

だが、その時間は停滞ではない。

ゆっくりだが、確実にノアは言葉を告げようとしていたのだから。

 

「・・・・・・・・・・互いを知らない方がよかったのよ」

 

長い沈黙の果てに、ノアは小さい声で呟いた。

その口調はシャトヤーンへの返答というよりも、独り言に近い。

 

「知っていたから、あいつはあたしを助けようとして・・・・・・・・・・勝手にあたしに負い目を感じてるんだから」

「それは・・・・・・」

 

シャトヤーンの応答を待たずに、ノアは力ない声で告げた。

誰かに伝えるためではない言葉を。

 

「あたしを見捨ててくれれば――――誰も傷つかなかったのに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルシオールでは、、大半のクルーのシフトは大きく分けて朝、昼、夜の3つに分かれる。

パイロットや司令官、その他の専門技術者は比較的自由な時間を与えられているが、敵の襲撃など非常時に備えなければいけないリスクもある。

今は午前11時過ぎ、夜のシフトを終え一眠りしたクルーと、早めの昼食を取る昼のシフトのクルーが混ざり合う時間帯だ。

だが、食事を取る者の大多数の注意は、手元の食事ではなく隅の長机の一角にいる集団に向けられている。

エンジェル隊――――この艦を護る、皇国最強とも言えるパイロットたちと、それに混じっている一人の男。

男はエルシオール司令であるタクト・マイヤーズではない。

黒い服に身を包んだ彼は、食堂から運ばれてくる大量の料理を一人で片付けていた。

 

 

 

 

 

アークは最後の皿、コーンポタージュを飲み干し、はー、と息を吐く。

 

「やっと一息ついた・・・・・・・・サンキュな。色々とご馳走になって」

「いいえ。残さず食べてもらって、あたしも嬉しいです」

 

アークに笑顔で返すのは、制服の上に白いエプロンを着たミルフィーユだ。

宇宙コンビニでミントと会ってから、アークはミントに連れられてエンジェル隊全員と合流することになった。

彼が空腹具合を伝えたところ何か食べさせることになったが、今の自分は5人分は楽に食べると告げたアークに対し、食堂の正規の食事に手を出すと問題が出る恐れがあり、エンジェル隊で最も料理が上手いミルフィーユの自室にもそれほどの量の食材がない。

結果、食堂の設備と、今日は使わない食材でミルフィーユが調理することになった。

消費した食材は、後でミントが『白き月』に請求書を出す予定となっている。

 

「どうぞ、食後のお茶です」

「あ、どーも」

 

ちとせから各員に出された食後の緑茶をゆっくりと飲んでいるアークに、正面に座る蘭花が呟く。

 

「まさか、アンタがエルシオールに乗ってたなんてね・・・・・・・」

「《守人》は独立行動が多かったから、正式所属はしてないんだけどな。軍人になってからの間の大半はこの艦にいたよ」

 

アークは既に自分がかつてこの艦に所属していたことを彼女たちに話している。

食事中の話のネタには丁度いいだろうし、隠すような話題でもない。

長机の一角に座ったちとせが真剣な顔でこちらを見る。

 

「では、今日は久々にエルシオールを見るためにこちらへ?」

 

アークは溜め息を吐くと、いや、と首を横に振り、

 

「ちょっと、ノアの怒りを買っちゃってな・・・・・・・・ああ、一応タクトから許可は貰ってるから」

 

タクトという名を告げると、それまで料理の運搬を手伝い、彼の食事を黙って見ていたヴァニラが口を開いた。

 

「あの・・・・・・・タクトさんは今、どうしていますか?」

「ヴァインに頼まれてルシャーティに会いに行くとか言ってたな。結構忙しそうだったぞ」

「・・・・・・・そう・・・・・・ですか」

 

アークが昨日から見る限り、ヴァニラ・Hという少女はあまり感情を表に出すタイプの人間ではない。

だが、今の彼女の表情がよくない方向に変化したことはアークにも判断できる。

アークは首を傾げ、

 

「タクトが忙しいと何かマズいのか?」

「アークさん、女の子はいつでも愛しい殿方といたいと思うものですわ」

「そうよ。なのにタクトったら、最近ヴァニラをほったらかしにして」

 

ヴァニラ当人ではなく、ミントと蘭花から告げられたその言葉をアークは頭の中で転がす。

そして、驚きというよりも素の表情でうわずった声を出し、

 

「え゛・・・・・・・・お前ら、つきあってんの!?」

「・・・・・・・・・・・・・はい」

 

大声で問われたヴァニラは頬を赤く染めながら、しかし小さく首を下に動かす。肯定の頷きだ。

 

「そんなに意外かい?」

 

向かいに座るフォルテが、どこか楽しそうな口調でこちらに問うてくる。

他の隊員とは一線を引いた、大人な彼女の態度にアークは少し戸惑いながら、

 

「いや、まあ・・・・・・・意外といえば意外だけど・・・・・・・・」

「確かに少し歳は離れてるけど、タクトは見ての通り、抜けた所があるから、しっかり者のヴァニラが傍にいてちょうどいいくらいさ」

「はい、ヴァニラ先輩とタクトさんは、とてもお似合いだと私も思います」

 

フォルテ、ちとせの言葉に他の者も頷く。ヴァニラは俯いているが、それが照れであって、拒絶の意ではないことはすぐに分かる。

彼女たちの後ろで、『うう・・・・・ヴァニラちゃん・・・・』とか呟きながら泣いて机に突っ伏す男たちが見えた気もするが、アークは無視。

そして、タクト・マイヤーズという人間のことを思い返す。

軍人としての彼は分からないが、人間的には嫌いなタイプではない。

あまり表に出さないヴァニラの素顔を引き出せるのが彼だけだとしたら・・・・・・・・・・・・・。

 

「うん・・・俺も、似合ってると思うぞ」

 

素直に出た結論だった。

ヴァニラは、少し驚いた顔になり、すぐに小さく笑う。

 

「・・・・・・・・あ・・・・・・ありがとうございます」

 

頭を下げたヴァニラに笑い返し、アークは立ち上がると既にエプロンを外していたミルフィーユに一礼。

 

「さて・・・・と、ごちそうさん。本当に美味かったよ、ミルフィーユ」

「また、食べてくださいね。それで、これからアークさんはどうするんですか?」

 

彼女の問いに、アークはしばらく考えた後、

 

「どこか昼寝でもできそうな所・・・・・・・っていったら、あるか?」

「あ、それなら・・・・・・・・・・・・」

 

ミルフィーユは紹介した。

彼女がこの艦で最も気に入っている場所を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アークが食堂から完全に去ったのを確認して、フォルテはミントに問う。

 

「・・・・・・・で、どうなんだい? ミント」

「そうですわね・・・・・・・・」

 

ミントは問われた内容を分かっている。

彼女だけが持つ、心を読む能力を使ってこそ分かる彼の精神状態。

本心では使いたくない能力だが、『ヴァル・ファスク』との決戦を控えている今の状況に不安要素は持ちたくない。

ミントは小さく笑い、

 

「ご安心ください。特に不審な思考はお持ちではありませんわ。どちらかと言えば、思ったことをそのまま口にするタイプの方のようですから」

 

ただ、とミントは付け加える。

 

「艦内の設備を見る時、驚きや面白さ、といった思考の奥に別の感情があった気がします。表層的な思考の奥なので、はっきりとは分かりませんが・・・・・・・」

 

ミントは、自分の分の緑茶を一口飲み、

 

「哀しい・・・・・・・・・・これが一番近い表現かもしれませんわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その空間は闇に閉ざされていた。

広い空間でありながら、他者が入るのを拒絶するような圧迫感―――禍々しさを覚える。

部屋の奥には豪華なつくりの椅子が一つあり、そこに座るのは眼鏡を掛けた40歳前後の男性だ。

あくまで人間の外見での話なら、だが。

服装は暗い、と言ってよい。左肩で留めたマントを翻して彼は目を細めた。獣が獲物を見つけた目だ。

彼は口を開き、外見に違わぬ低い声で、

 

「そうか・・・・・・ネフューリアを倒した者たちが・・・・・・・・・・」

「はい・・・・・・この先の星系に留まっているようですが」

 

彼の傍らには一人の男性が立っていた。

長い金の髪を後ろで縛り、暗い色調のマントを纏っている青年だ。

歳は二十歳前後。やはり基準は人類の外見年齢でだが。

彼には一つ、他の者と明らかに異質な所があった。

仮面だ。彼の顔の上半分は白の硬質な仮面で覆われていて、その目の色も眉の動きも見ることはできない。

青年の顔で唯一見ることができる部位である口が、もう一度動く。

彼は、感情を感じさせない機械のような無機質な声で、

 

「いかがなさいますか、ロウィル将軍」

 

トランスバール侵攻艦隊総司令官ロウィルは、決まっている、と仮面の男に応えた。

 

「ヴィーナ、出撃の準備を整えよ。明日にでも出る」

「は・・・・・・・承知しました」

 

仮面の男―――ヴィーナは一礼し、部屋から静かに去っていく。

自らがいた空気を残さず、まるで初めから自分はいなかったと主張するように。

 

 

 

 

 

 

一人残された部屋でロウィルはひとつの名を呟く。

 

「ネフューリア・・・・・・・」

 

愚かな女だったとロウィルは思う。

トランスバール侵攻作戦の中で、先遣隊に過ぎぬ彼女は己の分をわきまえずにトランスバールの中枢にまで攻め入り、そして負けた。

本当に愚かだ。だが、一つだけ役に立ったとロウィルは思う。

自分たちを倒せるだけの力を持つ人間たちが存在すること。それをその身をもって証明したことだ。

 

「・・・・・・・・EDENの落とし子たちか」

 

自分の中にある空白のようなものが満たされていくのをロウィルは感じる。

乾き、とも呼べるそれは、ジュノー侵攻が完了した時から生まれた感覚だ。

クロノ・クェイクの影響が消え、『ヴァル・ファスク』の軍を率いてEDENに数百年ぶりに侵攻した時、ロウィルが人類に受けたのは強い失望だった。

何の抵抗もなくEDEN本星を掌握してしまったことに、たかだか数百年でここまで弱くなるのかと、彼は内心酷い落胆を覚えたものだ。

 

確かに人類は弱い。だが、かつては自分を楽しませてくれる者たちが存在した。

本星のジュノーどころかEDEN領にすら侵攻することを許さずに、驚異的な勢いで自軍を滅ぼしていったEDENは既に存在しない。

だが、そのEDENから受け継がれた力をもって同族を倒した者たちがいる。

ならば、その者たちは自分を少しは楽しませてくれるだろうか。

ロウィルは薄く笑う。

 

「覚悟しておけ・・・・・・・・・貴様らには、我の満足いくまで踊ってもらおう。破滅の叫びと共に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

皆さん、こんにちは。SEROです。

ようやく敵方も登場ですね。次回からは話が一気に進展すると・・・・・・・いいなあ。

なお、今回でお分かりのように、この作品内でのタクトはヴァニラを選んでいます。

まあ、私がヴァニラさん好きなのもあるのですが、今後の展開上、彼女が一番望ましいという事になりました。

では、今回はこれで失礼します。