今日は、いつもより少しだけ忙しい。
掃除もいつもよりわずかばかり念入りに。
普段からちゃんとしているつもりだけれども、やはり広い家に1人で暮らしていると行き届かないところもあるものだし。
大事なお客様が来ると言うのなら特に綺麗に。
戸口を掃いて清めて。
玄関と主座敷には花を活けて。
客間の掛け軸は替えた方がいいかしら、きっと漢字文化圏ではないのでしょうし。
昔に主人が描いた墨絵の軸、こんなものしかないけれど。
桐箱の中、埃臭くは…なっていないようだし。
うん、これにしましょう。
あの子の部屋にも箒を掛けて。
本当に、休みになってもさっぱり帰ってこなくなって。
学生の頃は暇さえあれば帰ってきていたのに。
よっぽど今の職場と同僚の先輩方が気に入っているのかしら。
まあ、私がお見合いを勧めるせいでもあるんでしょうけど。
私の若い頃は20歳で子どもの1人もいないと驚かれたくらいだったけれど、最近はもう違うようね。
本当にちょっとの間に常識が常識でなくなって、色々便利にはなったけど、習慣の変化にはついていけない時もある。
実はあの子の部屋にまだたくさんのお見合い写真が積まれているのだけれど。
仕方ないわね、片付けておきましょう。
何より、「お客様」がいらっしゃるんだもの。
あの子がこの家に殿方のお客様を連れてくるなんてねえ。
お付き合いのことを聞いたら「そんなんじゃない」って必死に否定していたけど、母親としてはやっぱり期待してしまうわね。
殿方の友人なんて今まで1人もいなかったのだし。
それこそたしか、まだ幼稚園に入る前。
遠縁のハルミおばあさまのお孫さんのたっくんに遊んでもらって以来かしら。
ハルミおばあさまの所とも、主人が亡くなって以来もう随分疎遠になってしまっているわね、お元気かしら。
あらあら、あまり考え事をしている時間は無かったわね。
早く用意をしなければ。
お夕飯前には到着するみたいだし、食事の下ごしらえを今のうちにしておかないと。
いつものことだけれど、たすきを掛けると「よし、頑張ろう」と気が引き締まる。
そう言えば、紬のままでは失礼かしら。
後で色無地に着替えましょうか。
でもあまり礼装じみて迎えるとあの子に怒られてしまうかしらね、「そんなんじゃないって言ってるでしょ」って。
ふふ、よし決めた。
ここはあの紋付の色無地にしましょう。
お客様にはお着物の意味がわからないかもしれないけれど。
あの子をからかうのもたまにはいいわ。
私の意思表示にもなるし。
そうと決まったら急がないと。
長襦袢や半衿の色合いも考えないといけないし、帯も。
お客様にはかしこまって見えない程度に、あの子が見たら驚くように。
久しぶりにちょっとだけいたずら。
今から楽しみだわ。
こんな具合に、朝から千尋はとても嬉しそうだった。
もともと綺麗な庭先と戸口をそれこそ塵ひとつないほど整えて。
来客を連れて久しぶりに帰省する娘の為に、2人の部屋の用意をして。
昼過ぎに作業がひと段落すると自室の箪笥を開けて着物をいくつか取り出す。
決めたのは萌葱色の三つ紋色無地。
白く鮮やかに、家紋である鶴紋「鶴丸」が生地の色に溶け込んで美しい。
当日取り出したのでは少し遅いかもと思われたが千尋の日頃の手入れの賜物か、染みも汚れも虫食いも無い。
衣桁に掛けて陰干しにして、同時に袖と身頃の皺を見る。
皺も―――ない。
千尋は満足げに頷くと足音軽く台所へと向かった。
まだ少しばかり肌寒いが、萌葱色の本絹はこれからの季節を表すように風に揺れている。
裏山の清水を使い、精米したての米をといで。
かまどの羽釜に入れて、時間までつけおく。
これでご飯は最高の味になる。
お隣から今朝頂いてきた大根、白くて滑らかでとっても綺麗。
葉を刻んで大根の細切りと混ぜて塩もみをして浅漬けにしましょう。
朝の内から漬けておけばお夕飯には間に合うわね。
市場で古くから懇意にしている漁師さんに頼んでおいた真鰯。
お昼に一匹頂いたけれど、すごく脂がのって鰯特有の嫌な臭いが一切無い。
これならもう塩を振って焼くだけで十分だわ。
さっきの大根を使った煮物。
自家製の豆腐と葱、そして私が嫁いだ際に実家から持ってきたお味噌を使ったお味噌汁。
そして、これもまた実家から持ってきたぬか床を絶やさず育ててきたぬかみそで漬けた様々な野菜のぬか漬け。
あまりにもありふれた夕飯の献立。
これが、紛れも無いこの家の味。
あの子はなんと思うでしょう。
せっかく連れて来た殿方に質素なお総菜なんて恥ずかしいと思うかしら。
それとも私の真意に気づいて赤面するのかしら。
単純に久々の母の味を喜ぶ子ではないはず。
どうであろうと赤面するだろう娘の狼狽する様を想像して可笑しくなってしまった。
私が実家で母から受け継いできた味と、この家のもともとの味とが合わさったもの。
そしてあの子に受け継がせていく味。
ひょっとしたら、お客様もこの味を永く味わうかもしれないわ。
その方の家の味と合わせて、新しい味をまた作っていって欲しい、って。
ちょっと露骨過ぎるかしら。
ねえ、あなたがここにいたら何て言うかしら。
あのちっちゃなお父さんっ子がお嫁に…なんて考えられます?
今日あの子、殿方を連れて帰ってくるのよ。
お酒でも飲みながら語り合いたいって思うのかしら。
それともあなたのことだから「娘はやらない!」とか言い出すんじゃないでしょうね。
そうだわ、あなたが取っておいたお酒をお客様にお出しするわね。
私1人じゃお酒なんて飲まないのだし、いいでしょう?
代わりに今度のお墓参りにはまた美味しいお酒を持っていきますから。
それじゃ、そろそろ着替えてきます。
少し緊張するわ。
あの子の彼氏を出迎えるんですものね。
あなたも、あの子の選んだ殿方を是非見ていってくださいね。
用意した夕食はありふれた献立だが、それに使った材料や調理法は今では中々手に入らなく、実行の難しいもの。
この辺りには昔ながらの習慣や風景がまだ残っているとはいえ、今日ここまでのものを揃えるには千尋も骨を折った。
当たり前の中に最高級のもてなしの心が滲み出る夕食であることは間違いない。
こんなに美味しく温かい料理は無いだろう。
自室で千尋はたすきを外し、髪を束ねていたリボンを解いた。
千尋の胸くらいの位置まである見事な艶の黒髪が背に広がる。
帯を解き紬を脱ぐとてきぱきと色無地の着付けをこなす。
結婚して間もない頃に仕立てたものだが着心地も苦しくも無く、紋の位置も変わらない。
体型に変化が無い証拠だ。
さすがの千尋も安堵の息を吐いた。
いくつになっても体型維持には心を砕く、女の性。
髪をどうしようかと鏡を見て、ふとさっき解いたリボンが千尋の目に入る。
細い真紅の和リボン。
殉職した夫の、軍服礼装の赤いマントで仕立てたもの。
娘と揃いの、形見の品。
千尋は再びリボンを手に取ると、さっきまでと同じように髪を結んだ。
単純に首元辺りでひとつにまとめ、縛るだけ。
結び目も余り生地も目立たせずにただ巻きつけて。
鏡を見て確認して微笑んで頷く、これでよしとばかりに。
「ただいま、母様」
玄関の戸がガラガラとなる音と共に聞きなれた娘の声が響いた。
予定より少し早かったようだ。
けれどこちらも準備万端、嬉しさに思わず千尋の頬も緩む。
「お帰りなさい、ちとせ」
久しい声に導かれて玄関まで出迎えれば変わらない娘が立っている。
何とも恥ずかしそうなくすぐったい様な表情を浮かべて隣をちらちら伺って、まだまだ子ども、可愛いものね。
赤いリボンがふわふわと揺れて、まるであの人が「千尋この男性だよ。見てみなさい」と言わんばかり。
そうなの、この方が。
「まあ、貴方がマイヤーズ司令。娘がいつもお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。あの、休暇の間お世話になります」
「大歓迎です、いつまででも末永く居てくださって構いませんよ」
「かっ、母様!」
「ははは…いや、その…」
「さ、どうぞ上がってください。お疲れでしょう、すぐにお夕食の仕度を整えますから。ちとせ、マイヤーズ司令を客間にご案内して」
「は、はい!」
「お、お邪魔します」
「ちとせはお夕飯の前にお仏壇、お父さんに挨拶してきなさい」
「うん、そのつもり」
「ちとせ、オブツダンって?」
「ええと、簡単に言うとですね…」
まだ緊張していて私の礼装もどきには気づかないようね。
この調子では気がつくのはいつかしら。
いっそちょっと意地悪にお見合いの話を振ってもいいかもしれないわね。
千尋は娘の連れてきた来客の顔を見る。
黒い髪と黒い瞳は優しさに満ちて輝いている。
どことなく夫と似た雰囲気の男性。
思わず苦笑しながら千尋は首を傾げた。
そう言うところも親子で似るものなのかしら。
それとも父親離れできなかったのかしら?
まあいいわ。
とにかく今日はこの子の初めての恋人をたっぷりもてなしましょう。
ふふ、楽しみだわ
まだ休暇はしばらくある。
我が家もしばらくは賑やかになるであろう。
そう思うと千尋の心も弾んでいく。
観歳さん。私、幸せよ。
いつもの風景に、どこか足りなかったものを少し埋めて。
ゆっくりな時間が、この家にあたたかく刻まれていく。